その日の正午、デグサルルはリムサ・ロミンサの市場の一角で、長いこと立ち尽くしていた。
白いレースの日傘を傾け、屋内であっても光に触れないようなるべく肌に影を落としながら、石畳を一歩ずつ進む。頭上で揺れる三日月の髪飾りが、傘の内側の陰の中で、かすかに金の光を返していた。 石畳の上には、様々な露店が軒を連ねている。魚の匂い、香辛料の匂い、揚げ物の油の匂い。海都の市場は、故郷の青空市とはまるで違う匂いに満ちていて、彼女はいまだにこの喧騒に慣れきれずにいた。
目当ての品は、羊の乳だった。カゴンの天幕で幾度となく煮込んできた、あの白く濁った汁の元になるものを、この都市でも手に入れられないかと考えたのが始まりだった。しかし市場をいくら歩いても、それらしい店は見当たらない。
「羊乳かい? うちにあるのは水牛か山羊のものだけだねぇ」
三軒目の店主にもそう言われ、彼女は肩を落としかけた。
「でも、街の外には羊がたくさんいます……よ?」 「あれはね、魔物だよ」
口をあんぐりと開けたまま落胆するデグサルルは、だからといって諦めるには惜しい気がして、結局その牛乳を買うことにした。手渡されたミルク缶はたっぷりとした重みで手のひらに沈み込み、中身が揺れるたびに、とぷ、とぷ、と鈍い音を立てた。日傘の柄を抱え直しながら受け取ったので、指輪をいくつも重ねた指先が、財布袋の紐にわずかに擦れる。
礼を言って踵を返し、道中で休憩代わりに干し肉を確保して、次は調味料を扱う雑貨屋へ向かう。 塩も、故郷のものとは勝手が違った。カゴンの民にとって、塩は乳と並んで、命を繋ぐ何よりの宝だ。砂漠混じりの草原では岩塩の塊を薄く削り、器に沈めては味を確かめる。その結晶の重み、舌に乗せたときの角の立った辛さ、噛み砕いたときにわずかに響く軋み。そのひとつひとつに、彼女は幼い頃から馴染んできた。 しかし市場に並ぶ塩の多くは、すでに細かく挽かれた粉塩だった。そのほうが使いやすいので、仕様がない。 それでも彼女は、いくつかの店先で立ち止まり、小さな塊のまま売られているわずかな岩塩を見つけては、指先でつまんで光にかざした。日傘の内側に落ちる淡い影の中で、白く濁ったもの、灰色がかったもの、わずかに透き通ったもの。見比べる目つきは、思いのほか真剣だった。
「む!」
これなら、近いかもしれない。彼女はようやく、納得のいく透明感のある結晶をひとかたまり選び、店主に包んでもらった。麻の袋に収めたそれを懐に入れると、ずしりとした重みが、確かな手応えとして伝わってくる。
すべてを揃え終える頃には、日はすでに傾きかけていた。重い包みを抱え、彼女は久しぶりに気持ちが晴れるのを感じていた。 うまくいくかどうかは分からない。それでも、やってみたかった。
日頃世話になっている宿に戻ったデグサルルは、いつも手伝いで立っている厨房を借りようとして、出入口横の帳場に寄る。 日は傾いてきているものの、夕餉の支度にはまだ早い時間で、人の出入りも少ない頃合い。貴重な金勘定ができる寸暇に、宿屋の女将ことルガディン族のヴェームイルンは帳簿をつけていた。
「おや、お早いお帰りね」
彼女は両手にいっぱいの袋とミルク缶を抱えるデグサルルの姿を見ると、帳簿を閉じて向き直る。 普段なら朝方からの宿屋の仕事を手伝ったあとは、おやつどきを過ぎてから近所の酒場の調理補助に入るのがデグサルルの一日のルーティンだった。それから日を跨ぐちょっと前の夜に帰ってくるので、女将は昼間に姿を表す彼女をほとんど知らないのだ。
「アラ、ずいぶんなお荷物さね。今日はお休み?」 「はい! やりたいことがあって。すみません、竈をお借りしてもいいですか?」 「構わないよ。好きにお使い」
軽く手を振って許しをくれた女将に頭を下げ、デグサルルは奥の台所に上がって、火を起こして鍋をかけた。いつも洗い物や仕込みで慣れ親しんだ竈だったが、誰かのために何かを作るのは、これが初めてだった。 缶から乳を注ぐと、白い渦が鍋の中でゆっくりと広がっていく。細かく刻んだ干し肉を落とし、塩を加減しながら加えていくと、湯気が立ち上るたびに、鼻先をくすぐる懐かしい匂いが厨房に満ちていった。
調理の手順は身体が覚えているはずだったが、天幕の炉と都市の竈では火の通り方がまるで違った。火が強すぎればすぐに焦げつき、弱すぎれば乳が分離してしまう。何度も鍋を火から遠ざけ、木べらでかき混ぜながら、彼女は額に浮いた汗を袖でぬぐった。動くたびに、袖口の民族調の刺繍が鍋の縁に触れそうになる。
湯気の向こうに、故郷の記憶がぼんやりと浮かぶ。年長の女たちが鍋を囲み、来客のために腕を振るっていた光景。乾いた肥糧の爆ぜる音、家畜の乳を搾る乾いた音、遠くで響く誰かの笑い声。あの頃の自分は、ただ手伝いとして脇に立っているだけだった。まさか自分が、異国の都市で、同胞の男のためにこれを煮ることになるとは、当時は思いもしなかった。
そんなことを考えながら、こぽこぽと揺れている煮込みの泡を見つめていると、扉の向こうから足音が聞こえた。軽やかで、少しせっかちな、デグサルルには聞き慣れた歩き方だった。